Home仕事 ≫ 花火師

花火師

読み:はなびし
関連:

花火師の画像

花火師とは花火の製造や打ち上げ、そして花火大会の準備・運営までを仕事とする職人です。冬場に花火作りといった地道な作業を行い、夏場の華やかな花火大会へ向けて準備をします。夏の夜空を鮮やかに彩る花火大会の裏方を務める職人さんです。

特徴体で覚える仕事

花火師の仕事は主に3つに分けられます。まず花火を作り打上げる仕事、そして花火大会の為の準備・片付け作業です。なかでも花火の製造作業をするには、火薬類取締法に定める保安管理技術の免許を取得する必要があります。免許を取得しても「玉貼り(※1)3年、星かけ(※)5年」と言われるように、花火師の一人前になるためには長い年月を要します。日本の花火技術は世界的にも非常に優れており、色とりどりで、どこから見ても真丸い球状に見える花火は日本独特のものです。これも花火師達の長年の努力と工夫を重ねた結果です。また花火作りには設計図もなく、試し打ちもほとんど行わないので、最終的には職人の経験と勘がものをいう「体で覚える仕事」です。

(※1)玉貼り…花火作りの最後の工程で、星を均一に飛び散らせて真球形の花火を作るために重要な作業です。
(※2)星かけ…星(花火が開いた時に光を出す部分)を作る作業です。

起源・歴史鉄砲の伝来とともに

もともと花火は古代中国で発明され、戦争時の「のろし」として使われていました。「のろし」としての役割から鑑賞用の花火へと発展した経緯は、残念ながらはっきりしたことがわかっていません。
日本の花火の歴史は1543年に種子島に鉄砲と火薬が伝来したことに始まります。1613年に花火名人のイギリス人が徳川家康の為に花火を披露したのが、日本での花火第一号であると言われています。当時の花火は、竹の節を抜いた筒に黒色火薬をつめて、その一端に点火し火の粉を吹き出させる、いわゆる「立火」と呼ばれるものでした。やがて花火は、将軍家や諸大名など身分の高い人々の間で広まり、隅田川では花火の打ち上げが年中行事になりました。これが現在も続いている隅田川の花火大会の始まりです。当初の納涼花火は、水上に浮かぶ屋形船から花火を見て楽しむスタイルだったため、花火を売る船が多数の屋形船の間を漕ぎまわり、客の注文に応じて花火を上げるというものだったようです。この頃の花火も現在に比べると簡素なもので、赤色の火の玉が上空へ尾を引いて上がる程度のものだったようです。その後花火は、江戸町民に広がると共に、花火師や花火売りが登場するようになり、徐々に大規模なものへと改良されていきました。しかし花火の流行とともに花火による火災がたびたび発生し、何度か江戸幕府は花火を町中で上げることを禁止するお触れを出しています。明治に入り、花火の技術にも次々と新しい化学薬品が導入されるようになり、現在のような色とりどりに光る花火が開発されるようになりました。中でも打上花火は、色光の配置や変化など、日本で独特の発達をとげ日本の花火は「世界一の花火」と呼ぶにふさわしいものへと成長しました。

掛け声江戸中の評判になった「玉屋・鍵屋」

花火といえば、「たまや〜、かぎや〜」という掛け声が有名です。これは江戸時代の「玉屋」と「鍵屋」という江戸の二大花火師に由来しています。現在でも夏の恒例行事となっている隅田川花火大会の原型である「両国の川開き」が1733年に行われました。この時に花火師を勤めたのが6代目「鍵屋弥兵衛」という花火師でした。この時の花火が江戸中で大評判となり鍵屋の名前が広まりました。その後、鍵屋の7代目清七という花火師が鍵屋から分家して「玉屋」という花火業者を始めました。以後、両国の川開きは、上流に玉屋、下流に鍵屋がそれぞれ舟を出し、2大花火師が技を競い合い、民衆が「たまや〜、かぎや〜」という掛け声を掛け合いながら、花火を鑑賞していました。玉屋の人気は鍵屋を凌ぐもので、この時代の浮世絵の題材にもなるほどでしたが、1843年に大火事をおこしてしまい、江戸を追放されてしまいました。この為、玉屋は1代限りで断絶してしまいました。その後は鍵屋だけで両国川開きの花火を支えていきました。しかし、現在まで「たまや〜、かぎや〜」という掛け声が当時の名残として受け継がれています。

■参考文献・ウェブサイト


おすすめウェブ・サイト

おすすめ本


トップページへ当サイトについてサイトマップ(キーワード一覧)個人情報の取扱についてお問合せ

Valid CSS! Valid XHTML 1.1!